今日はちょっと気になる記事があったので。スマホネイティブ、って考え方自体が、実はスマホというデバイスのあり方を決めてしまっているというところに、違和感を感じました。
コンテンツマネージメントシステムが古臭いままの状態について。 | ホリエモンドットコム
なかなかに極端なホリエモンの意見ですが、なるほど、と思ってしまいました。確かに、もっとスマホに最適な形はあるはず。僕もこのブログはWordpressで書いていますが、スマホで出来たら、いいなぁとは、思わなくはない。
他方、今日、こんなエントリを見て、あれ?っと思いました。
パナソニックのスマートカメラ『CM1』は完全にiPhone6キラーだった:Photokina2014 – 週アスPLUS
そうなんです。別にAndroidって、スマホである必要はないんだよなぁ、と、思い返しました。
そういう意味では、僕らって、「スマホ」って言葉を使った時点で、スマホとはかくあるべき、という勝手なメンタルモデルを持っていて、それに充てがったソリューションを考えてしまっているのではないか、と。
例えばiPhone。元はミュージックプレイヤーです。iPodです。iPodでネットが、電話ができる。それがiPhone。でももはやiPhoneをミュージックプレイヤーだと思っている人はいない。もはやiPhoneはiPhoneです。
かたやAndroid。スマホのOSと言われていますが、中身は組み込み型のLinuxそのもの。別にスマホ以外でも使えます。カーナビやデジカメや時計、ミュージックプレイヤーなど、用途はいろいろ。
こうして考えると、僕らが「スマホ」と定義しているものって、結構危ういというか、スマホという言葉で決めつけてしまっている何かを超えたところに、本当のニーズだったり、これからのインターネットの形があるような気がしました。
良くも悪くも、この一因となっているのが、所謂ケータイキャリアのビジネスにあったと感じています。高機能な小型コンピュータでありながら、キャリアの携帯電話として売られている現状は、スマホを広く行き渡らせるという一つの成果をもたらしている一方で、スマホの進化の方向性に影響を及ぼしているのかもしれない。
ルミックスのエントリについて、いまさらコンデジかよ、なんて意見もありますが、でも実はそこにニーズの根っこがあるような気がしてならない。コンデジが通信できたら、こんなことができる、って、昔は普通に考えていたことが、今は、「スマホでどう実現できるか」という、逆方向の思考になってしまっている。結果として、器用貧乏なデバイスが出来上がっていく様は、ガラケーと揶揄された携帯電話の末路を見るような感覚があります。そのガラケーは、最終的にどうなったかといえば、圧倒的な省電力性能などを手に入れて、ひとつのプロダクトとして完成されている。ガラケーを成熟させたのは、実はスマホ。スマホが雑多なニーズの受け皿になったから、ガラケーは今のケータイになったのではないかな、と思ったりもします。
さて。パズドラでもブレフロでもなく、そういう隙間ではない、本当のケータイデバイスのニーズって何なんだろう、って考えると、行き着く先はやはり、ウェアラブルだったりヘルスケアだったりするのかねぇ、というのが、今のところの感覚ですが・・・
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